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ふりかえる

2016年がそろそろ終了するので、その振り返りをまだ気力があるうちにしておきます。

 

 

1月:虚無。銭湯に行く。後半辺りは史上最大の忙しさ。

 

2月:冬休み。初めて海外旅行をする。一番楽しかった時期。ガルパン4DXを観る。

 

3月:就職関連イベントに行かない。

 

4月:飲み会をする。バイトをする。映画を観る。

 

5月:バイトを沢山する。映画を観る。

 

6月:試験勉強をする。試験を受ける。

 

7月:面接を受ける。飲み会をする。

 

8月:面接を受ける。映画を観る。テストを受ける。実家に帰る。

 

9月:虚無。映画を観る。ツイッターをする。アマガミをやる。

 

10月:飲み会をする。ツイッターをする。

 

11月:虚無。バイトをする。映画を観る。ツイッターをする。

 

12月:虚無。

 

 

まとめ。

来年は良い年になりますように。

 

 

 

 

始めます

 

唐突に、はてなを始めたいと思います。

 

 

私自身のことについては、何か書くことがあったとしても、気が向かなければいっこうに書き始めない残念な性格をしているため、この一回きりで、もう永遠に更新がなされないかもしれませんね。そのときはそのときで、完全に静止しているという動作だけはあるのだからどうか許してもらいたいです。

 

書くことは特にありません。虚無があります。

 

 

 

 

 

柊かがみ「勉強は得意だが料理は苦手。だがそこがいい!ゲーム好きで、特にシューティングゲームが好きらしいが劇中でその腕前は披露していない。ラノベを好んで読んでいるようなイメージがあるけど、単に読書が好きなだけなんだからね!私はオタクじゃな~い!」(ニコニコ大百科より抜粋)

 

いい時代だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから永遠と思われるような恐ろしく長い幾層の年月が流れ、日本海の寄せては返す波の音を聞きながら優雅に泳ぐ白身魚を捕えうまい寿司にして食べることができる存在はもうどこにもいなくなっていた。えんがわ・はまち・すずきよ、さらば。

 

 

 

 

映画『ハーモニー』感想

2015/11/21劇場で。感想。

(以下の感想は2015年当時のものです…)

 

 

 冒頭:なんだかなあ…盛り上がりに欠けるなあ…

 日本:こういうのと違うよなあ…うん…違うよなあ…そうじゃないんだよなあ…

 ラスト:ミャハもびっくりトァンの「愛してる」発言…ハーモニープログラムが実行され、二人の意識が消失…我々の意識も消失……選択が自明、宣託が従命な生命体によって、この感想テキストは生成されている……

 

 

 冗談は止めて頑張って書くと、劇場版ハーモニーは単純に映画として失敗作だと思われる。なぜなら、この映画を原作と切り離して映画単体として観ると、けっこう説明不足感があるゆえに、オチが分かりにくいし、物語の細部が詰まっていないから。

 

 細部を原作で補完すればいいじゃないという意見はもっともだが、そもそも小説と映画は表現のジャンルが違うし、また、続き物の映画でない限り、一本の映画はそれ自体のみで評価されるべきだ。その意味では、原作と映画の脚本が異なっていても一向に構わない。映画として面白ければそれでよい。だが、他のメディアに必然的に頼らなければ面白くないような映画は、ほとんど全て、映画としては駄作だと思う。

 

 逸れた話を元に戻すと、単純に面白くないから劇場版ハーモニーは駄作なのだが、具体的にはどこが面白くないのか。

 

 一つ目は、細部の描写がヌルい点である。これはもう色々な所で書き込まれているので繰り返すのは面倒だが、どうしてこうなった的な謎建築物、生体部品で作られているはずのトァンが乗る馬がなぜかガチガチの機械馬、怪我しそうな物を最大限排除するあるいは安全性を高めるはずの日本でなぜかグランドピアノ、マッチ、ベランダ、プール等の危険そうなブツがごろごろしてる、全員コンタクトなはずの大人が眼鏡をかけている(伊達メガネだとしてもガラス入ってたら危ない)など…世界観と映し出される事物とが上手くマッチしていない。

 

 二つ目は、一部の演出がよくない点である。冒頭のトァンがRPGを撃つ場面はイマイチ盛り上がらないし、問題のカプレーゼシーンは、観る前かなり期待していたのですが、実際は、頑張っている血まみれのキアンを映さずに、トァンと返り血を浴びる店員を映した形のよく分からないアングルになっている。これ、トァンのモノローグという体で物語が進んでいたのに、トァンでもなければキアンでもない視点からこの重要シーンを描くのはどうなんだろうと思ってしまう。あと、謎の百合百合しさ。あの衝撃のラストをやるには必要な演出なのかもしれないが、キアン置いてけぼりなのは許さん。演出のせいで、キアンの存在感は居ないも当然のように薄くなっている。そうすると、キアンの「ごめんね、ミャハ」という台詞に穿った解釈をして、キアンは、トァンとミャハのイチャラブぶりに嫉妬あるいは嫌気が差して反抗を一人裏切ったのかもしれないみたいな気持ちにもなる。どちらにしろ、二人のそういうシーンがいちいち回想に入ってくると、それ以外の脇役の存在感が相対的に薄くなるのは制作者にも分かっていたことであろう。百合マシマシ発言は確信犯である。

 

 で、恐れ多くもガチ百合へと脚本を変えてしまった劇場版ハーモニーの面白くないところ三つ目は、この恋愛要素がミャハの思想をけっこうぶち壊す点である。恐らく、作品最大の違和感がこの点に潜んでいるような気がする。というのも、女版タイラーダーデンこと御冷ミャハが憎悪したのは健康至上主義社会。健康管理ナノマシンを身体に入れた大人は、その身体を社会のリソースとして使うことを余儀なくされ、共同体全員が互いの身体を気遣う社会。その社会に対してミャハは「自分の身体は自分一人だけのもの。自分の死は自分一人だけのもの。システムの資源として生き、資源として死んでいくのはまっぴらよ」というイデオロギー*1で「一緒に戦場へと赴く同志=トァンとキアン」を自殺へと導く。はずなのだが、トァンがミャハに恋愛感情を抱いていたと仮定すると「二人が一緒に自殺する=一緒に仲良く死のうね」ということになって、いや、これは自殺する目的が変わってませんかトァンさん、ていうか、ミャハにとっては困ったことになりませんか。そして最後のシーン、衝撃の告白でびっくりでもミャハはちゃんと殺されるのだが、ここ、一人で死ねたミャハに続いてトァンも一緒に死ぬか(めでたく仲良し)、そうしなければミャハを殺さないでハーモニープログラムの始動を二人で待つか(仲良し)、トァンの行動はこの二択だと思う。だって、原作と違って、トァンの復讐じゃないんだから。現在恋愛感情を持っている相手に復讐するのかよ。いずれにしても、映画ではミャハが撃たれたその後のシーンは皆無だから、ものすごいモヤモヤする。面白くない。なんだかなあ……

*1:自分が資本ではなく、身体を持った人間であることを確かめるのに「一発おれを殴ってくれ」と豪語するタイラーダーデンのそれとよく符合する

三人仲良く手を取りあって

 舞城王太郎九十九十九』(2003,講談社ノベルス)を読み終えてから数日経過したが、未だ読了直後の動揺から逃れられずにいる。

 

(以降めちゃくちゃネタバレしているので、未読の方はご了承くださいな。)

 

 いや、なんか、清涼院流水『コズミック』は先に読んでいて、そのトリビュートだっていうから天才主人公の探偵神≪九十九十九≫が女の子といちゃいちゃしたり、神通理気なる謎の推理法をかまして「謎などありませんよ。あるのは論理的な解決だけです」みたいなことをやるのかと思ったら全然違った。舞城王太郎だった。

 

 まず、ストーリー。わけがわからない。章立ては『第一話』『第二話』『第三話』『第五話』『第四話』『第七話』『第六話』の順で書かれている。最初の『第一話』は、主人公≪九十九十九≫の生誕とその幼年期が語られている。それにしても、これぞ舞城といった風な『第一話』。特にラストの展開とその文章には、傑作の予感を感じさせずにはいられないような迫力が滲み出ている。

 

 最後の最後、≪見立て≫が完了した後、≪見立て≫られたことが実際に起こるわけのわからないシーン。

 

それは僕だ。 年老いた九十九十九

 

 

上、一階の玄関のチャイムが「チントーン」と鳴る。ガラガラと扉が開けられて女の人の声がする。僕の名前を呼ぶ声がする。

お母さんだ。

もう来たんだ。

上田優子のお腹の中の老人の僕が大声で叫ぶ。

「ハァレルゥヤ!」

 

 

裁きはここで始まり、終わる。

(pp.114-115)

 

 この『第一話』だけを単体で読めば、この物語は他の舞城作品で書かれているテーマと同じようなそれが内包されている。たとえば『土か煙か食い物』や『暗闇の中で子供』などで描写される≪家族≫が抱える不和と主人公との軋轢、または『ディスコ探偵水曜日』に登場する子供たちの、父親・母親・兄弟からその生誕を祝福されなかった「見捨てられた」子供たちの、精神的葛藤…かつて愛されることを知ることがなかった人々がこれから誰かを愛したり誰かから愛されたりすることを望むには何が必要か、という重大なテーマによってこれらの物語は命を吹き込まれている。だから、舞城作品では殺人事件とか探偵の謎解きとかタイムスリップとかは問題提起のきっかけにすぎないし、トリックも肩透かしという感じは否めないので、そういうのはたんなるオマケであると言い切ってもいい。楽しいけど。

 

 『第一話』において、僕≪九十九十九≫は≪美しすぎる≫せいで他人を失神させてしまう。この設定は『九十九十九』の元ネタとなった清涼院流水『コズミック』等に登場する探偵神≪九十九十九≫からそのまま引っ張ってきたものだ。僕の目を直接見た他人は、うっとりするような表情のまま気を失うものだから、生まれたばかりの僕はへその緒も取らせて貰えないまま病院のベッドの端で宙吊りだ。そんな僕を助けてくれた(母親から奪い取った)のが鈴木君で、鈴木君は若くて綺麗な十九歳だけど赤ん坊の僕が美しすぎるせいで自分が産んだ別の子供を可愛がれないことに憤り、僕のことを虐待し始める。

 

僕の可愛くて可笑しい弟ツトム。でもツトムの登場によって僕の生活は一変してしまった。自分のお腹から出てきた自分の子供よりも自分の仕事場から盗んできた他人の子供の方にやはり愛情を奪われてしまうという事実に鈴木君は憤ってしまったのだ。恐らく鈴木君はちょっと僕にコミットしすぎたんだろうと思う。失神させられて怪我させられて殺されかけて、それでも僕の世話をするうちに鈴木君は僕への愛情にからめ取られて身動きができなくなったんだろうと思う。そこから脱するために窮余の策としての妊娠・出産・自分の子供の獲得も、僕に対する怪物的愛情の前には虚しかった訳だ。そうだ。愛情というものは、苦しみを乗り越えることをシステマティックに組み込むことで、怪物へと育ってしまう。だから人は、苦しみの多い愛情を、もしそこから逃れるというつもり/可能性/ひょっとしたら・あるいはという選択肢があるならば、長い時間継続させない方が懸命だ。苦しみがあるのなら、その愛情は諦めて、別の相手を探したほうがいい。世界には他にも自分の愛情を注ぎたくなる人間がたくさんいる。

 苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ。

(pp.14-15)

  

 この時点で、僕≪九十九十九≫は鈴木君≪お母さん≫から逃げることを選択している。だから、『第一話』ではその後殺人事件とか事件解決とかいろいろあるが究極的な目標は鈴木君から逃げることであって、しかし鈴木君は虐待の容疑で刑務所に入るも脱走していつまでも僕を追いかけてくるわけで、その目標を完全に達成するためには、≪別のお母さんから僕が産まれる≫という≪見立て≫の儀式が必要だった。で、その≪見立て≫は『第一話』のラストで完遂しているから、僕は≪見立て≫の上では鈴木君から逃げることに成功しているし、だからこの物語は本来ならここで完結しているものなのだ。

 

 だが、『九十九十九』という物語はこの『第一話』だけでは完結しない。なぜなら、『第一話』が作家≪清涼院流水≫の創作した物語でしかないからだ。というか、作者(舞城)が作中でそのように設定したからだ。つまり、続く『第二話』では、その後の僕≪九十九十九≫は登場するものの、『第一話』の内容をそのまま経験しているわけではない。『第二話』の僕は、≪別の母親から僕が産まれる≫といった≪見立て≫など実行していない。そういうわけで、未だに鈴木君の来訪を恐れて逃げ続けているのだから、問題はまだ解決していないわけだ。『第二話』の僕の元には、第一話 清涼院流水と題された原稿が届き、『第一話』の物語を読むことができる。

 

 以降、同様にして、『第三話』の僕は届けられた『第一話』『第二話』を、『第五話』の僕は『第一話』『第二話』『第三話』『第四話』を、『第四話』の僕は『第一話』『第二話』『第三話』を、『第七話』の僕は『第一話』『第二話』『第三話』『第四話』『第五話』『第六話』を、『第六話』の僕は『第一話』『第二話』『第三話』『第四話』『第五話』を、読むことができる。

 

 作中で『第四話』と『第五話』、『第六話』と『第七話』の順番がそれぞれ入れ替わっているのは、『第五話』と『第七話』の両方のラストで主人公(九十九十九は、各話で名乗る偽名がいろいろ変わる)がタイムスリップしているからだ。だから、『第五話』の主人公は時を逆流して『第四話』の物語へ入ってくるし、また同じように『第七話』の主人公も時を遡って『第六話』の物語へと闖入してくる。さてそうすると、『第四話』の物語には元々存在していた主人公1と『第五話』からタイムスリップして戻ってきた主人公2と、二人の主人公が存在することになる。『第六話』もそうだ。『第六話』では、元々いた主人公1と、『第七話』からタイムスリップした主人公2と、『第五話』からタイムスリップして『第四話』へ飛びその後の『第五話』から『第六話』へと移行した主人公3が存在する。ややこしい。タイムスリップのせいでオリジナルの主人公がどの物語を経験したのか分かりにくいので、ちょっと『第六話』の文章から引用してみる。

 

「つまり僕たちは『第五話』、『第七話』のタイムスリップのせいで起こったコピーなのか」

「そうだね。コピーといっても、オリジナルと大差ないさ。オリジナルだって、本当の体験なんて一つもない。これは全部お話なんだ。まあでも夢を仮定的に現実と捉えて考えると、オリジナルの≪経験≫とはこういう流れになっている。『第一話』『第二話』『第三話』、そして『第四話1』と『第五話1』、タイムスリップのせいで発生した『第四話2』と『第五話2』、『第六話1』と『第七話1』、そして再びタイムスリップしたせいで今オリジナルは『第六話2』を生きてるところさ。大変なもんだよ。…」

(p.547)

 

 オリジナル一体とコピー二体の≪経験≫を整理すると、

 

オリジナル:『第一話』『第二話』『第三話』『第四話』『第五話』→タイムスリップ→『第四話2』『第五話2』『第六話』『第七話』→タイムスリップ→『第六話2』

 

 コピー1:『第一話』『第二話』『第三話』『第四話2』『第五話2』『第六話』『第七話』→タイムスリップ→『第六話2』

 

コピー2:『第一話』『第二話』『第三話』『第四話』『第五話』『第六話2』

 

  たぶんこんな感じになる。タイムスリップ後の物語『第四話2』『第六話2』に、時間を逆流しないで元々存在した主人公のコピーが必要となるらしい。また、この小説で作家≪清涼院流水≫が書いたとされる物語は、『第一話』『第二話』『第三話』『第五話』『第四話2』『第七話』『第六話2』である(これらを私たち読者も読んでいる)。『第一話』~『第五話』の僕(語り手)はオリジナル、『第四話2』の僕はタイムスリップの自覚がないのでこれはコピー1、『第七話』の僕も同様タイムスリップの自覚なしなのでコピー1、『第六話2』の僕もこれまた自覚がないのでコピー2が語り手である。

 

 さて、だいぶ面倒なことになってきた。この『第二話』~『第六話2』では何が語られているのかというと、≪創世記≫と≪ヨハネの黙示録≫の≪見立て≫殺人事件なのだが、わりとこじつけというか、というかどう見てもこじつけでしかありえない≪見立て≫の詳細はどうでもいい。ここからの重要な(しかし巧妙に隠されている)目的は、僕≪九十九十九≫の畸形を≪神と子と聖霊の三位一体≫として≪見立て≫ることなのだが、もう疲れたし話が長くなるので続きはまたいつか。